2012年11月25日日曜日

荘子とコミュニケーションの問題



コミュニケーションにはいろいろな問題があって、例えば上司と部下の関係とか、実際的な問題もたくさんある。だけど、ここではとりあえずもっと原理的に、感情とか意図とか、一般に心の内部にあって他人から観察できないものをどうやって伝えることができるのか、という問題を、特に荘子に書かれた議論から考えてみたい。といっても、(書物としての)荘子がコミュニケーションについて触れている箇所は多くなくて、秋水篇の最後だけだと思う。読み下し文を引用する。(荘子 第2冊 金谷 治訳注 岩波文庫)

荘子、恵子とごう梁の上に遊ぶ。荘子いわく、ゆう魚出で游びて従容たり。これ魚の楽しみなりと。恵士曰く、子は魚に非ず。安んぞ魚の楽しみを知らんと。荘子曰く、子は我に非ず。安んぞ我の魚の楽しみを知らざることを知らんと。恵士曰く、我は子に非ざれば、もとより子を知らず。子も固より魚に非ざるなり。子の魚の楽しみを知らざること、全しと。荘子曰く、請う、その本に循わん。子の曰いて、女安んぞ魚の楽しみを知らんと云う者は、既己に吾れのこれを知ると知りて我に問えり。我はこれをごうの上りに知るなりと。
(変換できなかった文字はひらがなのままにした。)「これ」が何を指しているのかわかりにくいので、解釈に迷うのだけど、こういう議論をしているような気がする。

恵子の立場は、ときどき村上春樹の小説に出てくるようなコミュニケーション不可能論者みたいな感じがする。すべての人は違った考えを持っているから、コミュニケーションは不可能。コミュニケーションが不可能であることさえ、コミュニケートすることも不可能であると。

これに対する荘子の答えは簡単で、違っていると言える時点で何か共通の尺度でその考えを比較している、つまりコミュニケーションの可能性を仮定している。ただし、コミュニケーションの必要十分条件が共通性にあると仮定する限りで。ここでは、コミュニケーションを私秘的な物が知られる可能性があることを指して使っているので、この必要十分性は仮定して良いと思う。

というわけで、荘子は恵子的立場を否定するのだが、では荘子は魚と人間がコミュニケートできると主張したいのだろうか。多分そうではないと思う。ここでのポイントは、「共通性がコミュニケーションの可能性である」というテーゼが最初から論証なしに仮定されている点で、荘子はこれへの背理法を試みている気がするのだが、そこまで掘り下げた議論が書かれていないので、なんとも言えない。

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