2013年6月17日月曜日

カントールの楽園にて - 現代数学とは何か

〇〇学とは何か?などという質問は答えにくいし、そもそも的はずれな気はする。物理学とは何か?とか言われると、まあ物理を対象にするんでしょ、とは言えそうだけど、じゃあ物理って何?Naturaな物全部でしょ。でそれ以外のものってあるの、という話になる。とは言え、〇〇学という名前で講座を構えていたりすると、やはり外部から君等何やってんの、と言われて答えなくてはいけないことがあるだろうし、結果として的はずれな回答が量産されてきた気がする。

と的外れを承知で、だけどもやはり分かりやすい解説は必要だなあと思って自分なりの答えをまとめてみたい。

古典古代の考え


古典古代というと、ここでは古代ギリシャ・ローマのこと。ここで数学とはどう考えられていたかというと、アリストテレスによれば「量」を扱う学、と特徴づけられていた。どのような量を扱うかで、数学はさらに、離散量を扱う「数論」、連続量を扱う「幾何」、連続量同士の比例関係を扱う「音楽」、動的に変化する連続量をあつかう「天文学」の4分野に分類される。

この考えはかなり影響があったようで、ガウスの講義録を読んだことがあるけれど、数学は量を扱う学問で…という話から始まっていた。もっとも、ガウスはこんな一般論は興味ないみたいですぐ具体的な数学の話になったけど。最近でもある人文系の学者は数学を適応することを「量化の暴力」(笑)と呼んだりしている。

では、現代の数学は量を扱う学問なのだろうか。正直あまりそうは思えない。こじつければこじつけられるだろうけど、カラスと机と似ているところはな~んだ、みたいな話になると思う。

では現代数学とはなんだろうか。それは、カントールの楽園からの声なのである。

カントールの楽園にて


ゲオルグ・カントールは19世紀半ばの数学者。主な業績は集合論を作ったことにある。集合論とは集合に関する理論だけど(当たり前)、集合とはなんだろうか。一応、「物の集まり」で集まりに入るか入らないかはっきりした基準があるもの、と教えられる。普通の数学者はこの定義を教えられた後は、実際に集合概念が使われるのを見て、集合とは何かを学んでいくのだと思う。こういう集合論を素朴集合論という。もっとも素朴集合論は突っ込みどころ満載なので、専門の集合論研究者は集合がみたすべき公理を色々立ててその公理の性質を調べる、という間接的な方法で集合を研究している。例えば、ある集合と別の集合を合わせたものも集合になる、とか、(これはもっと問題含みだが)無限集合が存在する、とか。ただ、一般の数学者はこういう話はほとんど知らないのが普通。

で、現代の数学は集合が何らかの意味で実在していると考え(存在論的プラトニズム)、集合またはこれで表現できるものについて研究しているとだいたい言えると思う。圏論とかはちょっと違うかもしれないけど。数学を専門的に学ぶと、それまで学んできた数学が、集合の言葉で徹底的に再構成されるのを経験すると思う。

さっき、集合は物の集まり、といったけど、原子の集まり、とかそういった「自然的な」対象の集合はあまり考えられない。集合論は普通何も含まない集合(空集合)の存在を要請するわけだけど、空集合から出発してほとんどあらゆる数学対象が構成できる。∅を空集合の記号、{a, b, c}をa, b, cからなる集合とすると、自然数は次のように構成できる。
0 = ∅、1={∅}、2={∅,{∅}}、3={∅,{∅,{∅}}} ...
などなど。結局具体的な「物」は全然なくても数学が集合論の中だけで議論できてしまうのだ。これをカントールの楽園と呼びたい。

これでいいのか、とか存在論的プラトニズムの問題


さて、こんな楽園に暮らしていていいのだろうか、というのはちょっと不安もある。もっと実践的なことをやれ、というのは野暮だけど、存在論的プラトニズム(数学は特殊な実在のクラスである数学的対象について議論している)についてはいろいろもにょるものがある。ヴィトゲンシュタインなどは、数学は有意味だけど、そこで現れている名辞にそのまま対応した対象が実在すると考え無くていいんだよ、という主張をするために言語哲学に入っていったようだし、ブラウアーは数学的対象を、客観的実在の代わりに、数学者の精神の中にある観念的な対象としようとした。

とまあ、批判もあるわけだけど、集合論という枠組みは21世紀に入っても、当面揺らぎそうにない。

入門XML



XMLというと、ソースまともに読めないし文法が厳密すぎて手で書けないし、規格が乱立していてよく分からないし、まあいい印象はなかった。この本を読んでその印象が変わったかというと、どうだろう、これまで独自のバイナリ形式で保存していたところ、XMLで保存するようになって互換性が上がったとは言えるのかな。XMLにはAutomata theoryとかが影響しているそうだし、XSLTなんかちょっと関数型言語っぽく見えて面白そうではあった。

2013年6月4日火曜日

並行システムの検証と実装



並行システムのモデリング言語CSP(Communicating Sequencial Process)の本。単にCSPの理論だけでなく、モデル検査器FDRを使った検証や、JavaによるCSPの実装JCSPを使って、CSPで記述された並行システムの実装を行うところが特徴。

といっても私はCSPの理論だけに興味があったので、理論に関係しそうなところを拾い読み。CSPは内部選択と外部選択の違いなど結構微妙なところが多く、きちんと理解したとはまだいえないと思う。一番わからないのが失敗発散方式(Failure-Divergent model)で、定義の動機付けがよく分からない。この本もさらっと定義と他の方式との比較が書いてあるだけで、よく分からなかった。

とは言え、Hoareの本はちょっと古いし、Loscoeの本は難しすぎるので、CSPの参考図書としてこれから必要があれば参照すると思う。

2013年5月26日日曜日

FMEA・FTA実施法



FMEA,FTAどちらもシステムの安全性を分析するときに使われる手法。(だけじゃないけど)

簡単に説明すると、FMEA(Fault Mode and Effect Analysis)は、まずシステムをコンポーネントに分けて、それぞれがどのような故障モードを持つか書きだす。そしてそれぞれについてシステム全体への影響と対策を書いていく、というもの。実システムについてやってみると結構難しく、経験ある人から、故障モードと故障を混同しているとダメ出しされた。実は違いがわかっていない。

FTA(Fault Tree Analysis)は、問題にしたいフォルト(飛行機が落ちるとか、エアバックが衝突時以外に起動してしまうとか)から出発し、それがどのような事象を原因にして起こるか書きだす。そして、その事象がすべてそろったときフォルトが起きるなら、事象をANDゲートで結び、どれかひとつの事象で起きるときにはORゲートで結ぶ。これを繰り返して、これ以上分解できない基本事象に至れば終わり。こうやって出来たブール木を解析して、フォルトの必要十分条件を求めたりする。

で、FMEAとFTAとどう使い分けるかというと、これはあまりはっきりした基準はないそうだ。ただ、自分の印象論で言うと、どういう問題が起こりえるか網羅的に知りたいときにはFMEAを、問題にしたいフォルトがあってその原因を探りたいときはFTAをするのかなあと思っている。

私はちょっと勉強しただけなのだけで実務経験もないのだけど、ちょっと感想を。もちろんどちらの手法もやらないよりやった方がいいのだけど、ちょっとなあと思うところもある。まずFMEAについて言うと、FMEAって基本的に1つの故障の影響しか考えなくて、複数の故障は考えない。でも実際事故が起きているのを見ると、複数の故障が絡んでいることが多いわけで、FMEAだと不十分かなあと思う。

それからFTA。ツリーを書いて、ある程度フォルトの原因が列挙できるわけだけど、どの原因で起きやすいか、とか知りたいし、そうすると確率を計算したくなる。実際、FTAから故障率を求めたりする方法もあるのだけど、この方法は基本事象が独立に起きると仮定している。だから、冗長系を入れたりするとすごく確率が小さくなる。でも本当に独立と仮定していいのだろうか。実際にはフォルトがカスケード的に起きることのほうが多いんじゃないか。まあ例えば地震→津波→停電みたいな。

この本では、FTAの活用例として原子力の安全性に関するラスムッセン報告書を挙げているのだが、Wikipediaによると、この報告書は原子炉のメルトダウンは2万年に1回しか起きないと評価しているそうだ。他にも…万年に1回とかいう評価は以前はよく聞いたけど、結局この数十年のうちに3回起きているわけで、これはFTA手法の失敗例ではないだろうか。

リスク評価で、PRA(確率論的リスクアセスメント)が流行っているけど、元の確率がゴミなら意味ないよね、という話だと思う。

2013年5月21日火曜日

女子大生マイの特許ファイル他


仕事で特許を扱わなくてはいけなくなって、泥縄的に読んだ。こういう本ってもはやほとんどあらゆる分野にあるんだね。まあ、嚆矢になった本はきちんとラノベになっていたのにくらべて、この本は対話形式で物事を解説するというプラトンの時代からあるやり方になってるけど。

内容は、具体的な例を上げながら、特許を構成する要件について解説するというもので、特許の基本についてわかりやすく解説してある。



で仕事では特許調査をしなくてはいけなかったのだけど、これを一応参考にしてみた。ただ、ちゃんとやるのはとても手間が掛かりそうなことが分かってやれやれという感じだった。

それにしても、自分が見た限りでは、特許ってどこが新しいの??というものが多い気がする。その割にはやたらと一般的な請求項が立ててあったりして、新しい創意工夫をしてもそれに引っかかってしまいそう。ほんとうに必要な制度なのだろうか。

2013年5月19日日曜日

荘子と相対主義

荘子について英語版ウィキペディアは価値相対主義者であると書いている。
Zhuang Zhou, more commonly known as Zhuangzi[1] (or Master Zhuang), was an influential Chinese philosopher who lived around the 4th century BCE during the Warring States Period, a period corresponding to the summit of Chinese philosophy, the Hundred Schools of Thought. He is credited with writing—in part or in whole—a work known by his name, the Zhuangzi, which expresses a philosophy which is skeptical, arguing that life is limited and knowledge to be gained is unlimited. His philosophy can be considered a precursor of relativism in systems of value.  
 ただ「荘子」を読むと、少なくとも単純な相対主義を批判しているように思える。
荘子曰く、射る者、前め期するに非ずして中る、これを善射と謂わば、天下皆な羿なり。可ならんかと。恵子曰く、可なりと。荘子曰く、天下に公是あるに非ざるなり。而して各々その是とする所を是とすれば、天下皆堯なり。可ならんかと。恵子曰く、可なりと。
荘子曰く、然らば即ち儒・墨・楊・へいの四、夫子と五と為る。果たして孰れか是なるや。あるいは魯遽の若き者か。その弟子曰わく、我れ夫子の道を得たり。吾れ能く冬に鼎を焚きて夏に冰りを造ると。魯遽曰く、是れ直だ陽を以って陽を召き、陰を以て陰を召くのみ。吾が謂わゆる道に非ざるなり。吾れ子に吾が道を示さんと。是に於いてこれが為に瑟を調え、一を堂に廃き、一を室に廃き、宮を鼓すれば宮動き、角を鼓すれば角動く。音律同じきかな。或いは一弦を改調して、五音に於いて当たるなからしむるや、これを鼓して二十五弦皆な動く。未だ始めより声に異ならざるも、音の君たればのみ。且んど是くの若き者かと。(岩波文庫「荘子」第3冊、徐無鬼篇第5節、241ページ) 
最初の節は理解しやすいと思う。的を射る、という行為は単に矢が的を射る、という物理的事実だけでなく、的を射ようとする意図が含まれていなければならない。同様に、何かが「是」である、とは単に発話内容や思考内容の性質ではなく、ある基準に従って「是」なる発話や思考をしようとする意図が含まれていなければならない。しかし、もし「公是」というものがないという相対主義の立場にしたがうと、各人が各人独自の基準で「是非」を判断しているだけになる。

ここでヴィトゲンシュタインの私的言語の不可能性の議論を思い出そう。ヴィトゲンシュタインによれば、言語が意味を持つためには、何かの基準によってそれが使用されることが必要である。しかし、ある特定個人にしか理解されない私的言語が存在すると、その私的言語の使用基準はその特定個人の言語使用に合致しているかどうかで判断する他はない。しかし、これは私的言語においてあらゆる言語使用が正当化されてしまうということである。よって、私的言語は使用基準を持ち得ず存在しない。

この議論を「是非」の基準について当てはめてみよう。もし「是非」の基準が各人それぞれであるとすると、あらゆる「是非」の判断が正当化されてしまうということである。これは「是非」の基準がないということと同じである。これは「是非」が存在しないことと同じである。

さて、恵子はこの議論を否定して、すべての人が羿や堯で良い、と言っている。これに対して、後段では荘子は恵子に反問する。もしすべての人が羿や堯で良いのならば、相対主義を否定する学派も是とならないだろうか。そのあと魯遽の例えが書かれているのだが、この喩えはポイントが何も書いていないので理解し難い。しかしとりあえず、魯遽の弟子は、どんな立場の主張も擁護したり反駁したりできるソフィスト、魯遽はさまざまな立場の主張を統合する「音の君」と理解できないだろうか。「荘子」の天下篇にある恵子の命題「広く万物を愛すれば天地は一体なり」を見ると、恵子の立場は様々な学説を統合する立場、つまり魯遽に例えられている立場と思える。

このような立場に、荘子は批判的だ。恵子の立場は、確かに様々な学説を統合する立場ではあるが、それは「音の君」ではあってもやはりうつろいゆく「声」に過ぎず、「是」ではないと。しかし、なぜうつろいゆく「声」を「是」としてコミットしないのかについては、荘子のいう「明智」とは何かとも関わってくるのだと思うのだが、このあと何も書かれていないのでこの節からは読み取ることはできない。


2013年3月19日火曜日

墨子「経・経説」を読んだ



「墨子」の現代語訳を主要な篇は墨子 (ちくま学芸文庫)で、経・経説は上記の東洋文庫版で読んだ。墨子の言動を記録した「なんとか篇」(尚賢篇とか非攻篇とか)はプロパガンダなのだろう、とても分かりやすい。これらの篇は墨子が儒教の教典をよく理解していることが分かって面白いし、基本的な出発点が儒家とそれほどかけ離れているわけでもないことが分かる。

一方、経・経説は、うーんさっぱり分かりません。訳者もよく分からないらしく、「本文に疑問がある」とか「意味が通らないがとりあえずこのように訳しておいた」とか書いてある。経と経説は上篇と下篇に分かれていて、上篇では経は定義集、経説はその解説を、下篇では経は命題集、経説はやはりその解説になっている。なんか論理哲学論考みたいなスタイルの書物なのだけど、「円」や「力」の定義と「仁義」の定義が同じテキストのなかでされていたりと、現代人の観点から見ると面白い。ちなみに「仁」は「愛」、「義」は「利」のことであるそうだ。

他にも「無知」を勧める道家の立場は矛盾している、なぜなら学ばないことを学ばせることだから、という至極最もな批判とか、「法」とか「為」の定義であるとか、色々面白い。経の定義によると、「為」とは「知に窮して欲に引かれる」ことである。此の定義に従うと「無為」はまあ当たり前の主張になりそう。

私は中国語原文は読めないけど、読み下し文くらいは読めるので経・経説の読み下し文で手に入りやすいものがあったら読んでみたい。例えばどんな漢字が使われているかでも色々情報があると思うので。

以上、老子についてのエントリが難しすぎて進まない逃避でした。