本論では、ヴィトゲンシュタインが唱えたとされる「意味の使用説」についてそれを主張するに至るアーギュメントを再構成してみたい。ここでヴィトゲンシュタインの考えとしては、「哲学探究」のものを主として考える。「哲学探究」のテキストとしては、丘沢静也訳の岩波書店版を参照する。
「意味の使用説」とはなんだろうか。若干ヴィトゲンシュタインの書いているものからは飛躍があるが、私はまず第一義的には「言葉の意味とは言葉の使用を説明するものでなくてはならない」という要請なのだと考える。その上で、規則のパラドックスによりどんな存在者もそのような説明を可能にしないことが導かれ、意味の概念を放棄して言葉の使用の記述に徹するというヴィトゲンシュタインの立場が導かれると考える。
通常の理解での意味の使用説
意味の使用説と通例されている主張は、特に「哲学探究」の43節において表明されているとされることが多い。
「意味」という単語が使われる―すべての場合ではないにしてもーほとんどの場合、この単語は次のように説明できる。単語の意味とは、言語におけるその使われ方である、と。
しかし、この部分は歯切れが悪いし、これを正当化する何らのアーギュメントも提示されていない。そもそも、ヴィトゲンシュタインは哲学においてはアーギュメントは存在しないとも述べている。
哲学は、あらゆることを提示するだけ。なにも説明しないし、なにも推論しない。ー あらゆることがオープンになっているので、なにも説明することがない。隠されているようなものに、私たちは興味を持たない。
哲学探究124節
ただ、ではこれでは他の立場を取る人をどう説得するのかよく分からない。ヴィトゲンシュタインは、自分の主張は正しく理解されれば自明である、と言いたいのかもしれない。しかし、ソシュールのように言語使用を意味から切り離す主張もあるのだから、すくなくとも表面上は意味の使用説は自明とは言いがたい主張である。少なくとも、「正しい」理解に達するためのアーギュメントが存在しなければならないだろう。実際、ヴィトゲンシュタインは「哲学探究」の中で、ある種の対話という形でアーギュメントを導入しているように思える。
そして、むしろ哲学にはアーギュメントが存在しない、という主張自体ある種の結論であって、やはりそれを正当化する何かのアーギュメントが存在するのではないか。その結論として、ある種限定した「哲学」という営みが成り立ち、その営みの中ではアーギュメントが存在しない、と言えるのではないかと思う。
意味の使用説は何でないか
では、意味の使用説はなにを主張しているのだろうか。これが「言葉の意味とは、それが表す観念のことである」といった立場や、「言葉の意味とは、それが表す指示対象のことである」といった立場のように、言葉に何か指示値(それがどんな存在論的資格をもつものであれ)があって、それが何であるかを問題にする立場ではないことは明らかだろう。確かに、使用全体を言葉の指示値と見なすことは可能で、こうすることで自明にあらゆる言語の使用を説明する意味論が構築できるが、それがヴィトゲンシュタインの意図だとは思えない。むしろ、ヴィトゲンシュタインは言葉が何か指示値(意味)をもつ、という考えそのものを批判している。
…品詞の区別について、アウグスティヌスは語っていない。言葉の習得をアウグスティヌスのように説明する人は、どうやら、まず第一に「テーブル」、「椅子」、「パン」などの名詞や、人の名前のことを考えているのではないか。その後でようやく、活動や性質をあらわす名前のことを考え、それ以外の品詞については、勝手に見つかるものだと思っているふしがある。
哲学探究第1節
1の例をながめてみれば、見当がつくかもしれない。言葉の意味という一般的な概念が言語の機能を靄で包んで、クリアに見えなくしてしまっているのだ。
哲学探究第5節
よってヴィトゲンシュタインは、言葉の指示値、という概念に対立するものとして言葉の使用、という概念を持ちだしているのだと思われる。
意味は使用を説明しなくてはならない
「哲学探究」に至る前段階である「青色本」では、言語にまつわる問題の核心が次のように述べられている。
If I give someone the order "fetch me a red flower from that meadow", how is he to know what sort of flower to bring, as I have only given him a word?
The Blue and Brown books, Harper & Row, p3
一般化して言うと、言語記号しか与えられていないのに、それがなぜ言語使用を決定するのか、という問題である。これへの解として、「精神」というオカルト的な媒体の中の記号、つまり意味の存在が想定されてきたのだ、というのがヴィトゲンシュタインの指摘であり、これを批判することがヴィトゲンシュタインの目的である。つまり、「意味」や「精神」といった概念が引き起こす哲学的問題(キマイラ狩り, 哲学探究94節)を解消するためには、「意味は使用を説明しなくてはならない」という要請が課題とされるのである。
よって、「哲学探究」の冒頭部分では、プリミティブな言語における言語使用が繰り返し記述されることになる。
規則のパラドックス ー 使用を説明する「意味」は存在しない
言語使用を説明するものとして、簡単に考えつくのはその語の使用ルールである。しかし、いわゆる規則のパラドックスによれば、どんなルールもその使用を説明しない。ただ、この議論は誤解である、と批判されているので、検討を要するだろう。
私たちのパラドクスは、こういうものだった。「ルールは行動の仕方を決定できない。どんな行動の仕方でもルールと一致させることができるから。」それに対する答えは、こういうものだった。「どんな行動の仕方もルールと一致させることができるなら、ルールに矛盾させることもできる。だからここでは、一致も矛盾も存在しない。
そこに誤解があることは、私たちがこうして考えているあいだ解釈に解釈を重ねていることからも明らかである。まるでどの解釈も、少なくとも一瞬のあいだは私たちを安心させてくれるのだが、私たちはすぐにその解釈の背後にある解釈を考えてしまうかのようだ。つまり、このことによってわかるのは、ルールの解釈ではないルール把握というものが存在していることだ。ルール把握は、ルールを適用するケースごとに、「ルールにしたがう」ことと「ルールにそむく」ことにおいてあらわれる。
だから、「ルールに従った行動はどれも解釈だ」と言いたくなるのである。「解釈」と呼んでもいいのは、ルールについてひとつの表現を別の表現に置き換えることだけである。
哲学探究201節
通例の議論では、この引用の最初のパラグラフがいわゆる規則のパラドックスを表明していて、しかし第2パラグラフで「これは誤解である」と言われているので、すくなくとも規則のパラドックスの議論は解釈としては誤りだ、といわれる。
しかし、この「誤解」はもちろんヴィトゲンシュタインの議論に対する誤解ではなく、「ルール」の働きに対する「誤解」である。ヴィトゲンシュタインが指摘するように、このパラドックスは、解釈を行わず、我々が慣習にしたがったやり方でルールに「ただ」したがう、ということがあることを示すだけである。したがって、このパラドックスはパラドックスではないのだが、しかしパラドックスではなくとも、アーギュメントとしての価値はあるように思われる。そして、なにを示すアーギュメントかというと、ルールが「指し示す」対象を提示するだけ、つまり「解釈」を重ねるだけではルール把握は不可能である、ということを示すアーギュメントなのである。
ただ記述するだけ ー どんなものでも、そのままにしておく
したがって、言語がその使用を獲得するのは、その意味によってではない。というのも、どんな意味も誤解されえるからである。むしろ、言語がその使用を獲得するのは、その使用の慣習であり、また自然誌的事実である。これらを記述することから、言語の問題に関わろう、というのが「意味の使用説」であると思われる。